山口県宇部市のかわむら歯科、院長紹介

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院長紹介

院長 河村和典 の自己紹介

経歴 昭和39年1月28日生まれ
昭和45年3月:宇部短期大学付属幼稚園卒業
昭和51年3月:宇部市立藤山小学校卒業
昭和54年3月:宇部短期大学付属中学校卒業
昭和57年3月:山口県立宇部高等学校卒業
昭和63年3月:昭和大学歯学部卒業
       4月:歯科医師国家試験合格
昭和63年4月:双葉台菊間歯科(千葉県市原市)勤務
平成2年4月:新倉歯科医院(東京都田無市)勤務
平成3年4月:JNデンタルクリニック(埼玉県川越市)勤務
平成5年1月:新倉歯科医院勤務(東京都田無市)勤務
平成7年1月:かわむら歯科医院継承
所属学会 ・GO会
・福岡TIP-EDGE研究会
血液型 A型
星座 みずがめ座
備考 ・藤山中学校校医
・宇部フロンティア大学付属幼稚園園医
患者様へ
メッセージ
患者様の笑顔あふれる医院をめざしていきます。

院長の生い立ち

小学校時代

私は小学校の時に父親と一緒に遊んだ記憶がほとんどないのです

私の父は歯科医師であり、常盤町の市役所裏にあった宇部警察署の前で歯科医院を開業していました。

その頃の父は私が学校から家に帰って、寝た後遅くに医院から帰ってきていました。
また日曜日は、仕事のおつきあいや歯科技術のセミナー、講習会などへ出かけていることが多く、子供心に歯医者さんは本当に忙しいお仕事だなと思っていました。

父との思い出でよく弟と話になることがあります。

当時、私は火曜日と土曜日に剣道を習いに常盤町の演舞場に通っていました。

夜7時に練習が終わるのですが、その後で父の診療所に行き歯科医院の院内で治療用のライトを使い、マイクを片手にスポットライトに照らされた歌手ごっこをやって診療後の症例検討をしている父の仕事が終わるのを待っていたものです。

仕事が終わり、父と車で一緒に話をしながら家に帰るのをとても楽しみにしていました
剣道の練習がある火曜と土曜だけが父と一緒に話をし、夕飯を食べることができる日でした。

そんな仕事人間の父ですから、本当に小学校時代は遊んだ記憶がないのですが、1年に1回くらいは遊びに連れて行ってくれました。

このおでかけは父との楽しい思い出になっています。特に忘れられない記憶は小学校4年生の時、父と私の二人で広島に巨人戦の野球を見に行ったことです。

宇部駅から急行山陽で広島まで行く途中のビュッフェで父と飲んだジュースの味は格別に美味しかった

広島球場の3塁側で巨人を応援しましたが、私が期待をしていた王、長嶋はヒットを打てませんでした。

それがまるで自分のことのように悔しかったのです。

野球観戦は悔しい結果に終わったのですが、父と二人で行けたことに大きな喜びと満足を感じたのを覚えています。

父と遊んだという思い出は決して多くはないのですが、地域の方に一生懸命に歯科治療をしている父を子供ながら誇りに感じていたことは確かです

中学・高校時代

小学校時代から鉄道にあこがれ鉄道写真や鉄道模型にはまり、時刻表を愛読書にしていました。
鉄道へのあこがれが高じて将来は旅行関係の仕事がおもしろそうだなと感じていました。

そんな鉄道少年でしたので運動は走ること、泳ぐことは好きでしたが、球技が全くの苦手でした。

高校3年生の体育祭ではクラス対抗球技大会がありました。
何種類かの球技に分かれてクラス順位を競い、その総合得点で優勝を決める大会です。
私はバスケットに選ばれていました。

ところが、クラス全員で参加する体育祭にも関わらず、私は級友に「メンバーから外れてくれ」「優勝がかかっている」と言われてしまい、返す言葉もなくチームから離れました

そして校舎の裏で悔しくて泣いた記憶があります。

当然、試合に出ない私にはその後、何もすることがありません。
校庭を抜け出し宇部市の街の本屋、レコード屋で時間をつぶしました。

級友はクラス対抗球技大会で優勝したいという気持ちで私に「メンバーから外れてくれ」と言ったのでしょうが、あの時の悔しさは今でも忘れることが出来ません。

この時、私は人の気持ちを感じる大切さを学びました。人の心に痛み、人の立場になって考えるということの大切さを身を以て学ぶことが出来たのです

人の気持ちや心の痛みを感じることの大切さを知り、また生まれながらの興味を持ったら一点に集中してしまう性格もあり、将来は歯科医師になって歯科の勉強をしたり、患者さんの立場に立って治療をするのも自分に合っているかなと思うようになりました

大学への進学を考える時期になり、自分の将来を少しは真剣に考え現実を見つめるようになると、やはり父の跡を継ぐのが私の人生であり、また親孝行でもあるとの考えもあり歯科医師を目指しました。

歯学部大学時代

大学受験では私は北九州市の公立大学の歯学部を受験しました。
当時は国公立大学の歯学部は偏差値が高く、受験には失敗しました。

このとき、両親と相談をして私立であっても、しっかりと勉強をして6年間で卒業し、早く社会人になった方が良いと思い、昭和大学に入学をしました。

入学をして驚いたことは、なんと年上の人が多いことかということです。 浪人をして入学をした人、医学部受験に失敗をして滑り止めの歯学部に来た人などが多くいました。

昭和大学は入学後、1年生は全員が寮に入って集団生活をすることになっています。

医学部2人、薬学部2人、歯学部2人の6人部屋での集団生活が始まりました。
寮は山梨県の富士吉田市という富士山の麓での生活でした。

富士山麓の大自然の中で、昼は講義、夜は勉強といえばかっこいいのですが年上の同級生に飲めないお酒を飲まされ、のびていました。まあ、今となっては大学時代の良い思い出です。

大学1年の時、私の出席番号の隣に女の子が座っていました。彼女は慶応幼稚舎から慶応大学に進学をし、大学を中退して昭和大学に入学をしてきていたのですが、彼女が感じた私の第一印象は「こんなに純粋な人が同じ学年にいるんだ」というものだったと卒業後に聞きました。

何でも彼女が食堂で話しかけたら、私は緊張して上手く返事をすることが出来なかったらしいのです。

実は私は今でも口下手です。今でも患者さんと話をする時には緊張をします。何しろ、大事な治療についての説明をするわけですから、間違ってはいけない、誤解させてはいけないという気持ちで正直に患者さんに向き合っています。

私は歯科治療において、口での説得でなく、噛んだ感触を患者さんに満足して頂くことで自分の治療を患者さんに納得してもらおうと思っています。 中には、口が上手な歯医者さんもいると思いますが、口下手な私が患者さんに納得をしてもらうのは、感動レベルの噛み心地を提供すること以外にないのです。

話はそれてしまいましたが、そんな口下手、球技下手の私が何と大学に入ってラグビー部に入部をしたのです。

高校時代の球技大会の悔しさが忘れられなかったのでしょうか、自分の殻を破りたい気持ちでいたのです。

やり出したら凝り性の私ですから、練習も一生懸命にやりました。
その甲斐あって2年生になると何と球技下手な私が50人ほどいる部員の中で15人のレギュラーに選ばれたのです。

スポーツで正選手になる事など夢にも思わなかった私ですが、地道に努力をすれば一定の結果につながるものだなと感じたものです。

ところが、まじめにも程があるのか4年生の時には腰を痛めてしまい選手を続ける事が不可能になってしまったのです。

また、当時の大学運動部は練習の後にお酒を飲まなければなりません。

腰を痛めてレギュラーを退いた私は、レギュラー時代は飲まなくても良かったお酒を飲まざるを得ない状況になってしまったのです。

お酒の弱い私は、これに耐える事が出来ませんでした。

合宿所の飲み会の席から素足で逃げ出し、そのまま退部をしてしまったのです。

退部をしたあと、大学5年生の夏にはヨーロッパを40日間リュックサック一つで旅をしたり、東海道五十三次を歩いてみたりする中で、多くの経験をしました。

また、持ち前の集中力から歯科治療に関する勉強にのめり込んでいきました。

歯科医師時代

藤山で父の後継者として平成7年1月より診療を始めました。

歯科医師となってから、治療に対する信念、使命を感じるようになりました。
その中の一つは技工物に関する物です

【~技工士 福江洋之氏との出会い~】

当時、うちの医院の取引先である技工所は宇部市内でも大手の技工所であり、多くの技工士さんやアルバイトさんが流れ作業をしているような所でした。

つまり、うちの医院は安さだけを基準に技工所を決めていたのです。

本当に多くの技工所さんが営業に来ました。
その営業のほとんどが「技工物の出来具合ではなく、価格の安さ」をアピールするのです。

こちらが何も言わないのに価格だけを話して、なおかつもっと値引きしますと言うのです。

私は患者さんの治療を通して、価格も大事だが、それ以上に技工物の品質がいかに大切かを痛感していました。

例え価格が安かったとしても、直ぐに外れてしまったり、割れてしまっては意味がないのです。

平成8年、私は自由診療で治療をしている患者さんの技工物をもっと高い品質にしたいと考えていたところ、ある先生に福江洋之さんを紹介されました。

この福江さんの作る技工物の品質は確かなものでした。

価格は営業で来る技工所さんとは比べものにならないのですが、品質は私も本当に納得の出来るものでした。

福江さんと出会った後、しばらくは自由診療の技工物は福江さんに作ってもらい、保険診療の技工物は営業で来る技工所さんに作ってもらっていました。

平成15年、私も色々と勉強をしている中で、ふと疑問を感じました。

「自由診療と保険診療で、技工物に差があって良いのだろうか」

患者さんは「かわむら歯科」にきちんと治療をしてもらいたいと思って来ているのに、 保険診療だからといって自分が納得できない技工物を患者さんに使って良いのだろうか。

本当に悩みました。考えに考えた末、私は自由診療であろうと保険診療であろうと私が治療をする全ての技工物を福江さんに作ってもらうことにしました。

保険診療は患者さんから頂ける診療代は決まっています。
その上、自由診療用の技工物を使用するのは、医院経営の面から見ると損益状態を悪くします。

しかし、私は患者さんに最高の治療をしたいのです。人の気持ちを裏切りたくはないのです。自分に正直にしか歯科医療をすることが出来ないのです。

自由診療の患者さんには技工物の材質そのものを変えたり、保証を設けたりして、より患者さんに不利益にならないようにしています。

今では、私は技工物に関しては安心して治療を受けて頂ける、また何よりも自分が自分の治療に満足をして、医療を出来ることに本当に喜びを感じています。 もう一つはインプラントに関するものです

インプラントとの出会い

1990年の頃です。
当時、私は大学病院の口腔外科に非常勤で勤務をしていました。

その頃、大学病院でもインプラントの数は少なく、当時から最先端の治療として行われていました。そこではインプラント治療の大変な面を数例みました。
インプラントは良い面もあるが、本当に慎重に治療をしなければならないものだと肝に銘じたものです。

ここ10年、インプラントは歯科界に広まり多くの先生が行っています。
私も導入に向けて、国内、海外研修に出向き、色々知識を習得してきました。
インプラントの研修を続け、知識を深める中で私は考えました。

「どうして私はインプラントをしたいのだろうか」

その答えは「お金が欲しい、収入を上げたい」ということでした。

一方、研修会での勉強を続けていくと、講師の先生方からも、とにかくインプラントを入れる事が第一優先とも思えるような、私にとっては理解できないような発言がなされたりしたこともありました。

私の信念として「歯はできる限り残したい」「義歯でも噛める」治療をしたいという気持ちがあるのでインプラントを入れるために早期に抜歯することは出来ないのです。

あえて言いますが、インプラントは素晴らしく良い治療です。

私、かわむら歯科の院長は自分の方針を曲げたくないので、インプラント治療はしませんがインプラント治療をご希望の方はしっかりとしたメンテナンスをしている医院で受診をすることをお勧め致します。

現在、私は自分の信念に基づき、素晴らしいスタッフ、技工士さん、そして何よりも私のわがままを理解して下さり、信頼をして下さる患者様に納得の出来る治療を出来ることに心から喜びと感謝の気持ちで日々、診療をしています。

歯を大切にしたい。お口をもっときれいにしたい、満足のいく歯科治療を受けたいと願う方のご来院を院長、スタッフ一同お待ちしております。